京大理系数学'10年甲[4]検討

[4](解答はこちら) 解答に書いた通り、「数学的帰納法」が浮かべば一本道の問題のはず、なのですが、本問のような問題文の場合、
 ・・・()
を必至に証明しようとして難航する受験生の姿をよく見かけます。しかし、どうやってみたところで証明できるはずがありません。()は証明の仮定であって、証明すべき対象ではないからです。証明すべき対象は、すべての正の整数nに対して「」になることです。
こうした受験生でも、「すべての正の整数
nに対して3で割ると1余ることを示せ」という問題文だと、数学的帰納法を使って(二項定理でも簡単ですが)きちんと証明できます。本問のように、証明すべき命題の中に仮定とする式が紛れていると間違う人が出てくるのです。
とにかくそこに‘
n'の出てくる式が書いてあったら、それを証明するのが「数学的帰納法」ということではありません。「AであればB」、つまり、「A B」を示すのであれば、示す対象はBであってAではありません。
私は、これは「数学的帰納法」の理解の問題、というよりも、論理構造の読解の問題、という方が良いように思います。日本語は、情緒的な言語で、論理構造を的確に表現するのに向いている言語とは言えないような気もするのですが、さりとて、数学的帰納法の論理構造は、できる限り多くの人に知っておいて欲しいことがらです。
また、こうした間違いが起こることの背景には、討論することをあまり好まず、はっきりと発言する人を見ると遠ざけたいと感じることが多い、日本人の習性のようなものがあるような気もします。同じ電磁波なのに、照明の光は美しいと感じて、携帯電話の電波は危険と感じる人がいる
(確かに周波数は違いますが)、というのも、同じようなことかも知れません。あるいは、買い物をしたときに、「ありがとうございました」と言われて、本当にこの店員さんは「ありがとう」と思っているのか怪しく感じることがある、ということにも共通するものがあるかも知れません。
ですが、もし、携帯電話の電波が人体に危険だ、と、主張するのであれば、科学的に論理的に証明できるのでなければ説得力がありません。科学の分野では、「ありがとう」と言われたら素直に感謝の気持ちを受け取り、感謝してもいないのに口先だけ「ありがとう」と言うことがないような文化を作らなければいけないと、私は思います。「
AならばB」と言われたら、Aが仮定であってBが対象である、という論理構造を正確に意識するべきです。同じ日本語でも、好きなのに「嫌い!」という言葉を投げつける文学分野と、論理構造を明確にすべき科学分野とでは、言語が違う、と、思うようにするべきなのでしょう。

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